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栃木県護国神社

ココダトレイル紀行

栃木県護国神社の戦没者慰霊巡拝

解説:サイパン島の戦い

―昭和19年6月15日〜7月8日―

1:サイパン島の防衛

 サイパン島を含めたマリアナ諸島は、第一次世界大戦後、日本の委任統治領として、南洋庁が置かれ、南洋興発株式会社の主導のもと、大規模なサトウキビ栽培と精糖産業が行われ、島にはもともとの島民であるチャモロ人の他、沖縄県民をはじめとする日本人2万人が暮らし、横須賀からの飛行艇の定期便によって結ばれていた。島の防衛は海軍が担当していたが、大東亜戦争勃発後も、ごくわずかな警備隊がいるだけの、平時と変わらぬ静かで平和な暮らしが続いていた。
 昭和19年、破竹の勢いで進撃を続ける米軍は、マーシャル諸島・アドミラリティー諸島・西部ニューギニア各地を占領し、引き続き日本の委任統治領である内南洋への進出を計画した。これに対し日本軍は、内南洋諸島から西部ニューギニアを結ぶ線を「絶対国防圏」と定め、19年秋までに全島を要塞化したうえで米軍を迎え撃ち、戦局を一気に挽回しようと企図した。内南洋のかなめであるサイパン島には海軍の中部太平洋艦隊司令部(南雲忠一中将)、隣のテニアン島には第1航空艦隊(航空部隊)が進出。米機動部隊来襲時にはフィリピン方面から出撃する連合艦隊と協力し、これを一気に撃滅しようと計画していた。また、島を護るべき陸軍は、部隊をのせた輸送船が米潜水艦によって相次いで撃沈されたため進出が遅れたものの、5月末までには第43師団(斎藤義次中将)など約25000名の各部隊が進出し、陣地を構築しはじめた。これと同時に民間人の疎開も進められたものの、疎開船が撃沈されたため中断してしまった。日本軍は敵のサイパン攻撃を、トラック諸島、パラオ諸島の後と予想していたため、島の防御工事も民間人の疎開も不完全なまま米軍の上陸を迎えることとなり、これがサイパン戦をより悲惨なものにした。

2:米軍の上陸とマリアナ沖海戦

6月11日、スプールアンス提督率いる米航空母艦群はサイパン島空襲を開始し、13日からは艦砲射撃が開始され、4万発以上の砲弾が撃ち込まれた。6月15日8時、Vターナー中将率いる第2、第4海兵師団は艦砲と航空機の援護のもと、一斉にチャラン・カノア、オレアイの海岸に押し寄せた(現、ランディングビーチ)。これに対し日本軍は海岸線とヒナシスの丘陵地帯に構築した陣地に拠り激しく抵抗し、15日だけで敵1500名余りを死傷させたものの、その日の夕方までには約2万の米軍の上陸を許してしまった。
 水際での上陸軍撃滅を狙った日本軍は、16・17日の夜、戦車第9連隊を主力とした激しい夜襲をおこなったが、米軍の圧倒的な火力の前に撃退され(このとき破壊された日本軍戦車が、ガラパンの戦車広場とオレアイ海岸、そして東京の靖国神社に残っています)、以後戦局を挽回できないままガラパン地区とタチョポー山の線で米軍と一進一退の攻防を繰り返した。一方、連合艦隊はすべての航空母艦を結集して出撃し、マリアナ海域の米機動部隊に決戦を挑んだ。
6月18日、日本の偵察機は米空母群を発見し、翌日、日本艦隊の各空母から、満を持した母艦機約300が米艦隊攻撃に向かったが、これをレーダーで探知した米軍は戦闘機部隊で待ち伏せて多数を撃墜、その網をくぐり抜けたものも次々と米艦隊の対空砲火で撃ちおとされた(米軍はこれを、マリアナの七面鳥打ちと称した)。そのうえ日本艦隊は米潜水艦の攻撃によって主力空母の大鵬、翔鶴、飛鷹を失い、以後、連合艦隊は一国の艦隊としての機能を事実上喪失してしまった。このマリアナ沖海戦の結果、空母部隊同士の決戦によって一気に戦局を打開しようとした日本の戦略構想は崩壊し、日本は大東亜戦を有利に終結させる見込みを全く失ってしまったのである。

3:ばんざい突撃

サイパンに多数の民間人がいることを憂慮された昭和天皇は、軍部に対し再三にわたりサイパン救援を求められたが、制海権を失った日本側に増援部隊を送る手だてはなく、6月24日、軍部はサイパン放棄を決定した。そうした国内の動きをよそに、島では最高峰のタチョーポ山を中心に激戦が繰り広げられていた。日本軍は島内に多数ある洞窟を陣地とし、頑強な抵抗を試みる一方、夜になると夜襲をくりかえし、米軍に多大の出血を強いたが、6月27日、米軍にタチョーポ山を奪われてからは、次第に島北部に追い上げられていった。そして7月にはいると、軍が掌握できる兵員はわずかに3000余にまで減少していた。7月6日、組織的抵抗の限界点を迎えたと判断した南雲中将は日本に向かい、「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と打電の後、自決した。また、斎藤師団長も残存部隊に最後の総攻撃を命じた後に自決した。7日早朝、陸海軍兵士や警官、船員や民間人からなる日本の残存部隊約3000名は、タナパクの米軍陣地になだれこんだ。万歳!と絶叫しつつ、棍棒や竹に銃剣をくくりつけた槍をふりかざした日本兵は1000ヤードにわたって敵陣を蹂躙、1000名の米兵を殺傷した後にあるいは戦死し、あるいは自決した。同じ頃、島の北端に追い詰められた民間人や兵士たちは、生きて虜囚の辱めを受けぬため、次々と断崖から身を投げ、あるいは家族や知り合い同士で手榴弾の上におおいかぶさり、自決していった。

4:エピローグ

サイパン島の戦いでは、日本軍は23811名が戦死し、921名が捕虜となった。さらに約2万の民間人が戦闘にまきこまれ、12000名は米軍に収容されたが、10000名は戦火に倒れた。一方、米軍は総兵力70000万名の内、15000名が死傷している。米軍にとって、血の代償は十分なものであった。11月24日、サイパン島アスリート飛行場から飛び立ったB29が東京を空襲、以後マリアナ基地群に配備されたB29の大部隊による本土空襲は、日本各地を焦土化し、日本の抵抗力を弱めてゆくのである。
一方、日本国内ではサイパンは軍民ともに玉砕と伝えられたが、7日のばんざい突撃後も、司令部の玉砕を知らない数千の将兵と民間人がジャングルに潜んでいた。彼らの多くは米軍の掃討作戦によってあるいは殺され、または降伏を選んだが、遊軍の巻き返しを信じて抗戦を続けた最後の日本軍部隊の降伏は昭和20年8月17日、更に最後の日本兵が山から出てきたのは9月になってからである。

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