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東部ニューギニア戦線慰霊巡拝案内−ウエワク地区−

栃木県護国神社資料展示室 中山郁

3:東部ニューギニア戦の特色一激戦と敗走と飢餓−

 東部ニューギニア戦の特色は、相次ぐ転進と餓え、そして飢えと病につきるといわれています。 第18軍が相次ぐ戦闘と後退の間に踏破した距離はおよそ二千キロメートル。その中には未開のジャングルやラム・セピック河の大湿原、サラワケット山脈やフィニスティール山脈など標高3千〜4千5百メートルの山々が含まれています。更に昭和19年に内地からの補給が一切途絶えてから、将兵達は芋・サゴ椰子澱粉、野鳥、蛇、野草や本の根、昆虫など、あらゆる動植物を口にせざるを得ませんでした。そして、体力の衰えた将兵達にマラリアや赤痢など病気が追い討ちをかけていったのです。昭和19年8月以降、日本軍将兵たちは、飢餓がもたらす極限状況のなかに飲み込まれていきました。

 しかし、こうした状況の中で、まがりなりにも約1万名の将兵が生き残ることができたのは、現地住民のおかげです。ニューギニアを舞台とした日本軍と連合軍の死闘は、多数のパプアニューギニア住民を巻き込んで行われました。連合軍による無差別な砲爆撃や、飢えに苦しみつつ敗走する日本軍の通過は多くの村々に被害を及ぼし、また、山南やセピック地区における日本軍による「現地自活」も、事実上、村々の畑の作物や財産であるサゴ椰子の供出に拠ったものであることから、住民の生活を圧迫しました。しかし、地域差や戦況の推移による変化はあるものの、白人による植民地支配を嫌う住民たちは、餓えた日本兵を村に住ませ、食料を与えるなど、手厚く協力してくれました。暗く光明のないニューギニア戦のなかで、唯一のともし火ともいえるのが、第18軍司令官としての責任を最後までまっとうしたうえで終戦後に自決した、安達二十三中将の存在と、現地住民と日本軍将兵の交流のエピソードです。このことは日本人が長く心に留めておかなくてはならないことです。そうした交流の中で、もっともニューギニアの人々に知られているエピソードが、柴田幸雄中尉と現パプアニューギニア首相、マイケル・ソマレ氏の話です。


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