ココダ・トレイルの歴史的背景


 スタンレー山脈における戦いは、激しく、そして悲惨極まりない東部ニューギニア戦の始まり であった。勇敢に戦い、そして弾薬も食糧もなく、飢えと病に苦しみつつ後退した兵隊たちの足跡は、ここからブナ地区へ、ラエ・サラモアへ、マダン、ウエワク、そしてアイタペ、さらには西部ニューギニアへと続いていた。戦没者を道標としつつ……


ココダ・トレイル概念図

1 日本軍のニューギニア進攻


南東方面で作戦中の
日本海軍特別陸戦隊


ウエワク北方をゆく日本の陸軍部隊
 昭和17年、日本軍はマレー・シンガポール の占領をはじめとし、東南アジアの主要地域から連合軍の勢力をほぼ駆逐していた。南太平洋方面においても、ウエーク島、ギルバート諸島、ニューブリテン島のラバウルなどの要地を制圧し、第一期作戦の目標を達成していた。

 日本軍にとって次の課題は、予想される連合軍の反撃を防ぐことであった。そこで、南東方面における日本軍の策源地であるラバウルの防衛を確かなものにするため、当時オーストラリアの管理下(事実上の植民地)ニューギニア島の太平洋岸(東部ニューギニア)と首都のポートモレスビーの占領が計画された。ニューギニア東部の制圧は、17年3月8日のサラモア占領をはじめとして、ほぼ 順調に進んだ。しかし、5月7・8日の珊瑚海海戦の結果、海路からポートモレスビーを攻略しようとした日本側の企図は連合軍によって阻止されてしまった。そこで浮上したのが、日本軍占領下の太平洋岸から、陸路ポートモレスビーを攻略しようという計画である。

これは元来、大本営から、可能かどうか研究するべきこととして出された問題であったが、南東方面に出張してきた辻正信大本営参謀の暴走によって、命令とされてしまったのである。かくして、ラバウルに集結していた南海支隊は、陸路ポートモレスビーを目指すことになった。

2 南海支隊の進撃


珊瑚海海戦、炎上する米空母レキシントン


サラモアに上陸する南海支隊


ココダ道で移動中の豪軍第39大隊


ココダ道で25ポンド野砲を搬送中の豪軍


スタンレー山中の豪軍陣地
 南海支隊は高知の歩兵第144聯隊と福山歩兵第41聯隊を主力とし、独立工兵15聯隊などの配属部隊から編成されていた。これらの部隊はいずれもグアム島、マレー半島、シンガポール、ラバウル、サラモアなどで勝利を収めた歴戦の部隊であり、錬度も実戦経験も極めて高く、士気は極めて旺盛であった。

 7月21日、先遣隊である独工15聯隊は海軍陸戦隊とともにバサブアに上陸し、一路スタンレー山脈をめざして進撃を開始し、豪軍と接触しつつ、29日にはココダの豪軍陣地を占領した。続いて8月18日、堀井富太郎少将率いる南海支隊主力がブナに上陸し、モレスビーへ進撃を開始した。通常の補給が不可能な山間部に入るため、兵隊達は武器弾薬のほかに、19日分の米7升6合(1日あたり4合の計算。本来なら6合が定量であった)と1食分乾パン、そして副食品を持たなくてはならなかった。その重量は一人あたり40キロ以上、さらに荷の重い機関銃部隊や山砲部隊では、その重量は50キロを越えたという。

 南海支隊の上陸は、オーストラリアにとってきわめて危険なものであった。当時豪軍の主力はアフリカ方面でドイツ軍と戦い、あるいはシンガポールで日本軍の収容所に入っていたため、防衛力は手薄になっていたからである。そこで、ニューギニア在住のオーストラリア民兵を動員するとともに、急遽、本国でかき集めた兵力を、軍用機は勿論、民間機まで動員して送り込んで日本軍に備えた。

 両軍の本格的な激突は、8月26日のイスラバ戦からである。イスラバ一帯に堅固な陣地を敷いた豪軍に対し、高知144聯隊は苦戦をしいられたものの、後方から追及してきた福山41聯隊の増援を得て8月31日、ついに豪軍を撃破した。しかし、1週間にわたって足止めをされてしまったことは、手持ちの武器弾薬だけ戦わねばならない日本軍に大きな禍根を残すことになる。日本軍はさらにギャップに陣を敷く豪軍を圧倒し、さらに9月8日、エフォギ南側の高地(ブリゲートヒル)に立てこもる敵を撃破、山中を進んで行った。豪軍はエフォギからさらに後方のイオリバイワの山中に5個大隊を集め、日本軍を迎え撃とうとした。

 急峻で見通しの利かない山岳地帯での戦いは、両軍将兵に多大な負担を強いた。ジャングルの中にある豪軍陣地は、発砲されるまで発見出来ず、日本軍は密林や樹木の上から攻撃する豪軍の勇敢な反撃に悩まされた。一方、実際にはそうではなかったものの、豪軍にとって、険しい山岳をものともせず迂回攻撃してくる日本軍はジャングル戦の高度な訓練を受けた部隊と思われていた。当時豪軍が北アフリカで対戦した、ドイツ・アフリカ軍団の兵士達よりも一枚上手と感じられていたのである。

 イオリバイワの豪軍陣地に対する日本軍の攻撃は、9月13日に始まった。攻撃の主力である144聯隊はこの頃、病人続出し、一人一日一合の粥をすすりながら近くの農園で芋を漁るほど食糧が尽きていたものの、土佐犬のように敵にかみつき、16日までに豪軍を撃破、陣地の占領に成功した。 144聯隊の損害は戦死72、負傷81.豪軍の遺棄死体は120名。兵隊達は、ここからポートモレスビーの灯を望見したという。

3 撤退


9/22、メナリ村で整列する豪軍第39大隊


豪軍負傷兵を担送するパプア人
8/30、イオラ渓谷にて


ブナ地区で米軍に手当される
日本軍将校、苦難の刻まれた身体に注目
 豪軍はイオリバイワで敗れた後、イミタ山脈に陣を敷き、日本軍を迎え撃とうとしていた。ここを破られれば、あるいはポートモレスビーまで日本軍をさえぎることはできなかったかもしれない。しかし、日本軍の力もここまでであった。イオリバイワ攻撃中の9月14日、堀井支隊長はモレスビー攻略を断念、部隊を撤退させることを決意した。日本軍にはすでに米もなく、将兵は力つきつつあったからである。9月25日、日本軍は食べた芋の皮を隠し(敵に食糧事情を知られぬ為)、戦死者の墓標を引き抜き撤退を開始し、カギ後方の山中に後衛部隊(スタンレー支隊)を残し、山から後退した。

 これに対し豪軍は追撃を開始し、スタンレー支隊をイオラクリーク南方まで圧迫した。このイオラの戦いも非常に悲惨なものであった。既に食糧もなく、武器弾薬も乏しいスタンレー支隊の将兵は、雨にうたれながら2週間にわたり敵を支え続けた。また、豪軍も兵站の不調に苦しみ、さらに雨と病、そして日本軍の頑強さがこれに追い討ちを掛けた。このころ、多くの現地人が豪軍のもとで補給品の輸送に動員されていた。豪軍も山中の補給は日本軍と同じく、その多くを人力による担送に頼らなければならなかったのである。かれらの村落は飢えた日本兵のため畑は荒らされ、また、豪軍から余りに重い荷物を持たされたため、肩をこわした者もいたが、一方で、彼らの豪軍負傷兵への暖かい看護といたわりが、「ちりちりヘアーの天使たち」として、それまで現地民陣に対して没交渉、無関心、さらに蔑視していたオーストラリアの世論を変えてゆくきっかけとなった。10月28日、豪軍の圧迫を支え切れなくなった日本軍は イオラ附近の陣地を撤収し、ココダも放棄してオイビ附近まで撤退し、強固な陣地を敷いたが豪州軍はこれを突破。日本軍はクムシ川布付近のジャングルを踏み分け、多くの犠牲者を出しつつブナ・バサブア・ギルワ地区に壊走していった。これでスタンレー山脈における戦いは終ったものの、それはまた、両軍将兵にとって、悪夢のようなブナ地区における戦闘の始まりでもあったのである。

栃木県護国神社